2011年11月9日水曜日

東工大は陶工大!? ワグネルから河井・濱田へ

東工大からは、近代日本陶芸史を代表する作陶家が幾人も巣立っています。


代表格は河井寛次郎、そして人間国宝濱田庄司の二人でしょう。柳宗悦が二人とともに進めた「民芸運動」は一時の流行を超え、「民芸」は我が国の工芸・アートの世界に確固とした地位を築いています。民芸運動の推進にあたり、東工大の果たした役割はあまり注目されることはありませんが、特筆すべきものだと思います。


さて、では、どうして河井や濱田といった優れた作陶家が本学で育ったのでしょうか?


それは、本学には創設以来の陶芸・製陶の系譜があったからでした。そして、その源流にはゴッドフリート・ワグネルがいます。


そもそも、本学の前身・東京職工学校は、ワグネルの建議によって設立された東京開成学校製作学教場を受け継ぐものでした。創設の恩人の一人とも言えるワグネルが東京職工学校に赴任したのは、創設間もない1884(明治17)年のこと。1886年、ワグネルの提言で陶器玻璃工科が設置されると、ワグネルはその指導に邁進します。


陶器玻璃工科では、これまでの「職人の経験と勘」ではなく、科学的知識に基づいた近代的な製作技術の教育が行われ、藤江永孝北村彌一郎平野耕輔といったその後の日本の陶芸、製陶工業のリーダーが育ちました。


ワグネル亡き後、第2代校長手島精一はワグネルの私的な助手をしていた平野耕輔を助手、追って助教授に引き立てるとともに、日本近代陶芸の開拓者である板谷波山を招くなど陶器玻璃工科(のち窯業科と改称)を盛り上げました。こうして、板谷の下で河井や濱田といった新しい時代の作陶家が育っていくのです。ここでは、河井・濱田に至る系譜をもう少し丁寧に追ってみましょう。


さて、手島精一は1886(明治19)年に「官立窯業試験場ノ設置ヲ急務トスルノ意見」書を提出しています。陶磁器やガラス器などの製作を国家的・組織的に進めるための「官立窯業試験場」を東京工業学校内に設けるべしとの訴えでした。同様の訴えは平野耕輔によっても1912年に行われ、1896(明治29)年設立の京都市立陶磁器試験場の官立(国立)への移管により、1919(大正8)年に官立陶磁器試験所が設立され、実現します。


この京都の陶磁器試験場こそは、日本の近代陶磁史を語る上で重要な機関です。河井や濱田が作陶家として成長したのも、本学卒業後に就職したこの陶磁器試験場においてでした。


なお、京都市立陶磁器試験場の初代場長は陶器玻璃工科第1期卒業生の藤江永孝。第2代場長は本学卒ではありませんが、やはりワグネル門下の植田豊橘。そして官立移管後、1930(昭和5年)に所長となったのが平野耕輔です。


平野耕輔は国際的な視野を持ち日本の近代製陶界を牽引しました。陶磁器試験所長となる以前、ドイツ、ベルギーに3年間留学、また1911(明治44)年にも渡欧しヨーロッパの窯業についても研究(ちなみに、この平野の研究に基づいて日本陶器社(現・TOTO)はトイレなどの衛生陶器研究を始めます)。1917(大正6)年には満州に渡り満州鉄道中央試験場窯業科長を務めました。作陶家ではなく理論家であった平野の事績は多く語られることはありませんが、ワグネルを継いで日本製陶界の振興に努めた功績は大きなものがあります。


ところで、工業教育の熱心な推進者だった手島精一は、大阪にも工業学校を設立することを訴え、これを受けて1896(明治29年)、大阪工業学校(のちの大阪工業高等学校、現在の阪大工学部)が開校します。大阪工業学校の初代校長には東工大教授の伊藤新六郎が就任するなど、東工大と大阪工業学校にはつながりがあったのですが、その話はさておき、ここでは大阪工業高等学校窯業科の卒業生、小森忍に注目しましょう。


小森忍は大阪工業高等学校の在学中、藤江永孝の教えを受け、その縁あって京都の陶磁器試験場に技師として勤めました。小森は、所長だった藤江から釉薬研究の指導を受け、それまで我が国では秘伝の職人技として調合されていた釉薬を化学式で表現する方法を発展させ「釉薬の達人」と呼ばれました。小森はどんな作品でも、一目見ればその組成の化学式と成分比を言い当てた、と濱田庄司は述懐しています。


また、小森は中国古陶磁の研究にも励み、陶磁器試験場で河井寛次郎と濱田庄司を指導。小森の中国古陶磁の釉薬研究は二人にも引き継がれており、「小森がいなかったら、河井・濱田はあそこまで成長できなかったであろう」と言われるほどです。


もちろん、河井寛次郎、濱田庄司の陶芸家としての大成には、柳宗悦やバーナード・リーチ富本憲吉といった民芸運動の同胞の存在は不可欠だったでしょう。しかし、彼らが近代的な作陶技術を身につけることができたのは、藤江永孝、平野耕輔、小森忍、板谷波山といったワグネルの流れを汲む先人がいたからこそだと思います。


その意味で、東工大は日本近代陶磁史をリードした存在でした。東工大から人間国宝の作陶家が育ったのは、決して偶然ではなく、その象徴といえるでしょう。


なお、平野耕輔は陶磁器試験場長を退いたのち、東工大窯業学科主任だった近藤清治教授の急逝に伴って同学科主任として母校に再び赴任。平野は戦時体制の下、セメント、ガラス、陶磁器、耐火材料等の研究を進めるため窯業研究所の設立を唱道します。これを受けて1942(昭和17)年、本学に窯業研究所が設立され、平野は初代所長に就任しました。ちなみに、窯業研究所は、現在の応用セラミックス研究所の前身の一つです。そして、窯業学科はその後変転を経て、現在の工学部無機材料工学科へと受け継がれていくのです。


★ここで紹介した人物の作品のいくつかを、東工大博物館で見ることができます。ぜひご覧下さい。


【参考文献】
「G・ワグネルが開いた近代日本陶芸・先端セラミックスの美・用・学の世界」(2004年、東京工業大学百年記念館)
陶磁デザインの先駆者である小森忍の生誕百二十周年を祝す」(2009年、盛岡通)
平野耕輔先生の略歴とその功績」(大野政吉)

※冒頭の画像は、大阪日本民芸館のWEBサイトから転載した濱田庄司の作品です。