2011年11月4日金曜日

東工大と共立女子大学

東工大と共立女子大学に関係があるというと、意外でしょうか?


実は、東工大と共立女子大学は、創立当初には深い関係があったのです。共立女子大学は、1886(明治19)年、共立女子職業学校として創立されました。それは、東京女子高等師範学校(東京女高師:現・お茶の水大学)が東京師範学校に合併されたことを不服とする宮川保全など、東京女高師の関係者が中心となって設立を図ったことに始まります。


発起人の一人であった永井久一郎(永井荷風の父)は、米国留学や博物館、博覧会などの経験を通じて知遇を得ていた手島精一らの助力を仰ぎます。「共立」の名は、手島等を含めた34名が共同設立したことを以て名付けられました(なお、東工大(東京職工学校)の設立準備を進めた山岡次郎も発起人に加わっています)。


手島精一は、米英への留学経験などから、女子教育に多大な関心を寄せていました。当時の我が国は女性が経済的に男性に依存せざるを得ない状況にあり、中には悲惨な境遇に置かれた女性も多かったことから、手島は女性も手に職を付け、自立できるようにすることが肝要と考えていたのです。手島は女性教育に関して、「難しい字を読めるようになることが学問ではない。個人が生活できるようになることが学問なのだ」という趣旨の言葉を残しています。


手島精一は、1891(明治24)年、共立女子職業学校の第2代校長に就任、1897年~1903年の6年間を除き、1916(大正5)年までの18年間もの間、校長の職を務めます。実は、この期間(一時期を除き)手島は東工大の校長を同時に務めており、1916年は東工大(当時は東京高等工業学校)と共立女子の両方の校長を同時に辞した年でした。


つまり、1891年~1916年は、(一時期を除き)東工大と共立女子は校長が同じだったのです。なお、共立女子における手島校長不在の6年間は、東工大教授の中川謙二郎が第3代校長の職を務めました(※)。


両校の校長を手島精一が兼ねていたことから、両校には教員同士の交流、学生同士の交流があり、卒業生同士の結婚も多かったといいます。


また、このころの手島は東工大に工業図案科を設置するなどデザイン教育に力を入れていましたが、共立女子でも工芸作品の振興に力を入れ、島田佳矣や鹿野英二といった東工大工業図案科でも教鞭を執っていた教員を教壇に立たせました。さらには、生徒の作品を博覧会に出品して好評を博し即売会を行ったり、度重なる天覧(天皇陛下に作品をお見せする)の機会を設けたりするなど、海外の博覧会に通暁した手島ならではの活躍を見せました。その他、共立女子の財団法人化(学校法人共立女子学園の前身)にも尽力し、共立女子の発展に欠くべからざる役割を果たしました。


こうした功績を讃え、共立女子では、手島の校長退任後もその死去まで手島を名誉校長とし、敬慕したと言うことです。


手島の実学重視の質実剛健な教育方針、近代的なデザイン教育の導入などは、工業学校と女子職業学校という違いはあるにせよ、当時の東工大とも相通じるものがあると感じます。手島が校長を退任した後も、東工大の校長だった吉武榮之進が共立女子の商議員を務めるなど、東工大と共立女子の関係は続きましたが、東工大の大岡山への移転に伴って、疎遠になっていったように思われます。今では東工大と共立女子はほぼ無関係とも言えるでしょうが、創立当初、両校は手島精一を通じて結ばれていたのでした。


【参考文献】
『共立女子学園の100年』(共立女子学園、1986年)
『工業教育の慈父 手島精一伝』(安達龍作、1981年)

※正確には、中川が東京高等工業学校の教授に就任したのは1898(明治31)年なので、共立女子の校長に就任してから東工大の教授になっています。なお、後に中川は東京高等師範学校から再分離した東京女子高等師範学校の校長も務めています。