2011年6月10日金曜日

東工大と早稲田大学理工学科は兄弟?

本学は今年で130周年ですが、早稲田大学は創立129年だそうです。早稲田大学が創立されたのは1882年、当時の名前は東京専門学校と言いました。


さて、長い歴史を持つ両校ですが、実は、東工大と早稲田大学理工学科(現・理工学術院)は兄弟にあたるって知ってました?


時は明治40年(1906年)。早稲田大学は、その創立25周年の直後、それまでの法文経系の学部に加えて、理工系と医学系を拡充することに決めます*。そこで総長の大隈重信が、相談相手として白羽の矢を立てたのが、東工大創立の最大の功労者である手島精一(第2、4、5代校長)でした。


当時の早稲田大学は学内が法文経系のみであったため、理工科を創設するためにはどうしてもその人材を学外から持ってくるほかなかったのでした。手島精一は早稲田大学理工学科の設置に、なみならぬ熱情を傾けて尽力したと伝えられます。


早稲田大学の理工科の科長には、東京高等工業学校(現・東工大)の機械科長だった阪田貞一が兼務することになり、阪田貞一は東京高工の教授だった牧野啓吾と共に手島精一を助け、理工学科の編成や教授要項の作成などの創設作業に当たりました。なお、阪田貞一は、後に東京高工校長になります(第6代校長)。


そして明治41年、1908年に早稲田大学理工科が新設され、機械工学科、電気工学科が設置されたのです。


なお、この話にはなかなか面白い裏話があります。


KOMATSU(小松製作所)の創業者である竹内明太郎は、当時、初の私立工科大学を唐津の地に設立しようと計画し、これを公私にわたって親交があった手島精一に相談しました。(このためもあり、東工大の多くの卒業生が小松製作所の草創期の発展に尽くしたのでした)


手島精一は、東京高工の教授の牧野啓吾に命じてその準備にあたらせ、来るべき工科大学の教授候補者を着々と整えたとのことです。そこに早稲田大学創設の話が持ち上がり、手島精一はそちらの創設にも関わることとなりました。手島精一は、2つの工科大学の設置を抱えて困ったに違いありません。


一方で、竹内明太郎の方にも「新設大学の立地が唐津では、学生の募集が難しいから、もっと都会に立地すべき」との意見が現地から伝えられていました。


詳しいことは伝わっていませんが、どうやら手島精一は竹内明太郎に早稲田大学の現状を話し、早稲田大学理工学科創設のために協力してくれるよう頼んだようです。早稲田大学理工学科の創設には、資金や協力者が不足しており、うまく準備が進んでいなかったという事情もあるようです。


そして、竹内明太郎は、自らでの大学創設を取りやめ、そのために準備していた教授陣と設立準備資金を、なんと、そっくり早稲田大学に寄附してしまうのです。


そのため、それまで唐津の工科大学の設立準備に携わっていた牧野啓吾などはそのまま早稲田大学理工学科の設立準備へと携わることになります。早稲田大学理工学部がわずか1年で設立準備を終えてしまったのは、この唐津の工科大学の準備を下敷きにしていたからでしょう。


それにしても、大学創設を準備しつつ、それをそのまま寄附してしまう竹内明太郎という人物には恐れ入ります。


早稲田大学は、今でも竹内明太郎を恩人としており、大久保キャンパスに「竹内記念ラウンジ」という卒業生と教職員の交流の場を設けています。なお、理工学科の発足後も竹内明太郎は、機械設備、実験器具、更には給料の一部に至るまで援助を惜しまなかったと言います。


なお、牧野啓吾は、早稲田大学理工学科の初代教務主任として準備に精励を尽くしましたが、明治42年(1909年)の秋、機械工学科、電気工学科の学科開始の報を病床で耳にしながら、過労のため帰らぬ人となりました。卒業生を見ることなく亡くなってしまったのは、さぞ無念だったことでしょう。


時は明治の末、激動の時代に東工大、早稲田大学、小松製作所がこんな形で繋がっていたんです。


※この話については、「早稲田大学百年史」に記載されていると思いますが、未見です。もしかしたら細部で間違いがあるかもしれませんので悪しからず。いつかちゃんと調べて見たいと思います。


* もちろん、今でも早稲田大学に医学部はありません。医科の設置を決めたものの、何らかの理由で実現しなかったようです。