2011年1月27日木曜日

東工大発祥の地、蔵前「榊神社」

本年2011年は東工大創立130周年ということで、記念式典やホームカミングデイといった種々の行事が予定されています。我々130周年事業事務室としては、これらの行事を成功裡に終えることができるよう、この度、神社にお参りして参りました。


参ったところは、蔵前の第六天榊神社。そう、東工大発祥の地「蔵前」にある神社です。


現在、榊神社があるのは、東工大の前身である東京高等工業学校の正門があった場所であるということで、榊神社境内には、東工大の同窓会蔵前工業会が建てた「蔵前工業学園之蹟」という立派な石碑も建立されています。


実は、榊神社と東工大の関係は、単に正門があった場所というだけではありません。少し(かなり?)マニアックな話になりますが、榊神社と東工大の縁起を繙いてみましょう。


話は江戸時代に遡ります。江戸幕府は1620年頃、蔵前の西にあった「鳥越の丘」というところを切り崩して、隅田川の西岸を埋め立て「浅草御蔵」を作ります。これは、全国の天領(幕府の直轄地)から運ばれてくる年貢米や買い上げ米を収納・保管するために作られたものでした。つまり、幕府の米倉ですね(それまでは、北の丸や代官町に保管していたのですが、やはり交通の便の問題があったのでしょう)。


蔵前というのは、この米倉の前ということで、まさしくこの「埋め立て地」だったのです。


さて、明治維新が起こり、明治政府は幕府の不動産を基本的には引き継いだので、米倉としては不要になったこの土地を東京職工学校(東工大の前身)の建設に使用したというわけです。東工大は、米蔵のあった埋め立て地に建てられた学校だったのです。


次は榊神社との関連ですが、埋め立てに使った「鳥越の丘」というところには、浅草鳥越神社という神社がありました。鳥越の丘が切り崩されてしまったので、鳥越神社を構成していた鳥越大明神・熱田神社・第六天神という「鳥越三所明神」はそれぞれ移転を余儀なくされます。


そして、現在の榊神社にあたる「第六天神」は1719年に堀田原、つまり現在の柳橋1丁目あたりに移転するのですが、昭和3年(1928年)に現在の場所に再移転するのです。つまり、もともと第六天神が鎮座していた鳥越の丘の土を使って埋め立てたこの土地に、また戻ってくるわけです。歴史って不思議ですね。


まだ続きます。では、昭和3年に第六天神が遷座してくるまで、この土地には何があったのか? というと、東京職工学校の前に「浅草文庫」があったんです。浅草文庫とは、明治政府が作った公立図書館のようなもの。もとは湯島聖堂に「書籍館」という書庫と閲覧所があったのですが、湯島聖堂を議会の会議場として使いたいということで、明治7年に蔵書を米倉の中に移設して出来ました。土蔵の中に本を詰めたんですね。


そういう経緯があるため、榊神社の中には、「浅草文庫跡碑」という立派な石碑も建っています。浅草文庫は本学創立と同じ1881年に廃止されて、蔵書は現・東京国立博物館と国立公文書館に引き継がれました。


しかし、浅草文庫の書庫2棟と2階建ての閲覧所は、実は東京職工学校に引き継がれたんです。


なぜ、東京職工学校が浅草文庫の建物を引き継いだのか? 時は1882年(明治15年)、東京職工学校の設立の宣言がなされ、校舎建設の場所が蔵前と決まったとき、東京職工学校の設立準備事務所がこの旧・浅草文庫の建物内に設けられたからなんですね。いらなくなった浅草文庫の建物が空いていたので、これ幸いと学校の設立事務所にした、ということでしょうか?


東京職工学校は、その後「東京工業学校」、「東京高等工業学校」と名を変え、遂に大学昇格を果たそうという時、関東大震災で校舎が灰燼に帰し、大岡山の地に移転しました。そして、ここ蔵前の地に東工大の源流があったということを記念し、榊神社が旧正門の位置に遷座したことを契機として、蔵前工業会が石碑を建立したというわけです。


まとめると、
  • 第六天神が鎮座した「鳥越の丘」の土を使って、隅田川を埋め立てて江戸幕府が米倉を造った。
  • その米倉を書庫として利用し、明治政府が浅草文庫を作った。
  • 浅草文庫が廃止され、その建物が東京職工学校の設立事務所になった。
  • 東京職工学校が東京工業大学となり大岡山に移転するに伴い、第六天神はこの土地に戻って榊神社になった。
というわけです。


つまり、この第六天榊神社は、東工大、第六天神、浅草文庫という三者が歴史の上で出会った場所なんですね。お参りをするにも、なかなか感慨深いものがありました。


さて、最後にこぼれ話。東工大は隅田川に面していたことから、創立時よりボート競技が盛んだったようです。今でもボート部は東工大で最も歴史ある部活動の一つとして活発に活動されていますが、当時はなにしろ学校の隣が川ですから、その活動は推して知るべしでしょう。


現在、東京都下水道局の駐車場があるあたりに、ボート部(当時は端艇部)の艇庫などがあり、「蔵前艇庫」と呼ばれていました。この土地は昭和50年(1975年)に東京都下水道局との土地交換が行われ、東工大は現在の横浜青葉台にある土地を得たのですが、これを記念して、下水道局の駐車上の一角にそのことを示す説明板がひっそりと存在しているんです。


おそらく、東工大の構成員のほとんどが見ていないであろう、この「東京工業大学発祥の地」という説明板を見て、東工大が過ごしてきた歴史と有為転変に思いをはせることができました。(ちなみに、実際の説明板は駐車上のフェンスのすぐ後ろにあるので、とても見にくいです。)