2010年7月16日金曜日

東工大とアート

昨日の「東工大、今日の一枚(39)」は結構好評だったようなので、東工大とアートの関係について書いてみたいと思います。


といっても、最近実施されているArt at Tokyo Techの話ではありません。東工大創立の直後、明治30年の話です。


明治30年(1897年)、東京高等工業学校(東工大の前身)の附設工業教員養成所に「工業図案科」が置かれたのです。これは、現代風に言えばインダストリアル・デザイン科とも言うべきものでした。


東工大創立の最大の恩人である手島精一は、欧米に遊学し万国博覧会などを見ていた経験から、工業製品にもデザインが重要になってくることを見抜き、工業図案科の設立を長年の懸案としていたと言います。先見の明があると言うほかありません。手島自身の言葉を引いてみましょう。
工業学校に図案科を置けば,その図案科なるものがただ絵を描くばかりでなく,物品の用途を明かにしてやるから甚だ成績が宜しくなる訳である。 (中略) 織物を織る道も知らず,焼物を焼く方法も知らぬ者が図案を作るからいけないのである。工業学校における工業図案科なるものは,そういふ意味で置いたのである。*
工業図案科は明治32年に本科にも設置され、本学を構成する7科のうちの1科になりました。その趣旨は、手島の言葉にも表れているように、従来の芸術のように一品一品の意匠を凝らすことではなく、大量生産できる製品のデザインを、その用途・製作方法から合理的に考えることにあったようです(具体的には、漆器や陶磁器へのプリントが研究されていました)。


この発想、かなりモダンだと思いませんか? 私は、ドイツのバウハウスを思い出しました。また、「用の美」を掲げ民芸運動を主導した柳宗悦にも通じるところがありますね。東工大発の民芸運動の旗手たち(芹沢銈介は工業図案科卒ですし、河井寛次郎濱田庄司などなど…)も、こういう環境があったからこそ出てきたのでしょう。


バウハウスの設立が1919年ですから、東工大は世界に先駆けて工業とアートの新しい関係を探っていたということになります。しかし、残念なことに、大正3年(1914年)の学科整理の際、工業図案科は東京美術学校(現・東京藝術大学)に移管させられてしまいます。詳しい事情はわかりませんが、陶磁器や漆器などが殖産興業政策における重要な工業製品ではなく、徐々に工芸品化していったということが原因かもしれません。


工業図案科がずっと東工大に残っていたら、どうなっていたのだろうと思うと、楽しい空想が広がります。

* 東京工業大学百年史(通史)より。表記を現代的に改めた。